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■認知症について


■有料老人ホーム・グリーン東京での認知症の介護方法について。

 講談社『やっぱり「終のすみか」は有料老人ホーム』(当ホーム元社長が執筆、2006年)の第三部「認知症の介護で、ホームの実力がわかる」の全文です。
 
【目次】

はじめに
第一部 介護保険はじり貧で、家族介護は崩壊
1 「介護は10年」がふつうになった
2 家族介護は崩壊の道へ
3 総費用の伸びに対応不可能な介護予算
4 消えていく老人病院

第二部 残された選択肢は、有料老人ホームだけ
1 大いに役立つ有料老人ホーム
2 誇大広告にだまされるな―公正取引委員会が定めた広告ルール
3 入居契約書はここを読め

第三部 認知症(痴ほう)の介護で、ホームの実力がわかる
1 誤解だらけの認知症
  認知症への批判は大間違い
  食事を「食べていない」
  認知症への誤解を解く
  毎日毎日が同じように
2 認知症の介護はむしろ楽
  介護を受けての生活は恥
  赤ちゃんのあやし方
  認知症は個室介護が基本
  大きな建物が不安を除く
  90歳を過ぎても美白の世界
  入居者の生活空間を分ければ問題解消
  国民生活センターの提言
3 これだけは注意すべき認知症の介護
  本人が苦しむ認知症の初期をどう支えるか
  認知症の早期発見は是か非か
  盗られ妄想は老化の象徴

第四部 ホーム選びの勘どころと、豊かに生きる知恵
1 集団生活の息苦しさをどう避ける
2 有料老人ホームの見学や体験入居の極意
3 人生90年時代を豊かに生きよう
おわりに


 
第三部 認知症(痴ほう)の介護で、ホームの実力がわかる

 
2 認知症の介護はむしろ楽
●介護を受けての生活は恥

 認知症についての誤解にはひどいものがありますが、最たるものは「認知症の介護は大変だ」という認識です。むしろ、「認知症の介護は楽だ」と言うほうが正しいのではないでしょうか。

「グリーン東京」の場合は、健康な入居者の生活を支援したり、要介護になった人の生活を支えたりしますが、そこで私が驚いたことは、要介護になった人が介護を拒絶するということです。おそらく抵抗があるのでしょう。特別養護老人ホームに入ってきた人は、最初から重い介護が必要ですから、こうした経験はふつうはないと思います。
 私はそういう経験を数多くしてきたわけですが、たとえば、「足元が危ないから、杖を使って歩いていただけませんか」と声をかけると、さあ大変。「バカにするな!」とか「杖をついたりしたら、みんなに笑われるじゃないか!」と怒ってしまいます。あるとき、どんなに説明してお願いしても受け入れてくれませんので、思わず「転んで骨折でもすると困るし、娘さんと十分に相談していただけませんか」と言いました。すると、その方は突然怒りだして、「娘はまだ60歳、何もわかっていない」と声を張り上げました。
 これにはまた、ほとほと困ってしまいました。

 あるいは、自分で衣類を洗濯できなくなった入居者に、「こちらでやらせていただきましょうか」と声をかけたときでも、汚れた下着は出してくれません。「もうふつうのお風呂は無理のようですから、寮母といっしょに入るお風呂にしましょうか」というときも、強く抵抗されます。食堂にしても、健康な人たちが利用する食堂から、車椅子の人が集まる食堂に移ることになると、泣いてしまう人もいます。

 しかし、ここで一つ例外があります。それは、自分の部屋に手すりをつけるときです。トイレまで行くのに、手すりがあったほうが使いやすいと喜ばれます。これはどういうことかというと、お年寄りの心のなかのいちばんのプライドは、排泄だけは自分の力でやることなのです。だから、手すりをつけることに関してだけは抵抗がないのです。
 こうしたお年寄りの気持ちになってみれば、赤の他人に下の世話の面倒をみてもらうことほど屈辱的なことはたぶんないのでしょう。やはり、下の世話は自分の夫や妻や嫁にしてもらったほうが、まだプライドは傷つかないのです。しかし今は、そうした家族介護はだんだん困難になってきています。

「グリーン東京」では、提供している介護サービスがお年寄りから見れば、屈辱的と感じているかもしれないので、職員には、相手の気持ちになって、やさしい言葉でていねいに介護するようにという教育をしています。そのためには職員にも余裕がないといけないので、職員の人数は通常の老人ホームに比べて多めに配置しています。有料老人ホームの善し悪しは、まずそういうところにあるのです。
 あるいは、職員と入居者との間に心の交流がないと、介護はとてもできません。したがって、職員の定着率が高いか低いかが大きな問題となります。
 現在の日本では、福祉施設の職員の定着率は平均して2年です。2年間で職員の全員が入れ替わるということです。2年で退職していくということは、職員本人にとっては仕事はつらいだけで、やりがいのある職場ではなかったということです。そして何よりも、頻繁な職員の入れ替わりは入居者にとっても、これほどつらく悲しいことはありません。百者百様ですから、一人ひとりの入居者への介護の仕方は異なるので、たった2年では、相手の気持ちにたった介護とはどういうものなのか、何もわからないはずです。

「グリーン東京」の場合は、職員が辞める理由はだいたい定年とか結婚、夫の転勤、あるいは自分の親が介護を必要とするようになった、といったことが大半です。また、若い職員は数年で職場を替えていくケースが見られます。しかし平均すれば、定着率はきわめて高いのです。よい老人ホームづくりとは、こうした職場づくりからはじめるものだと私は強く思っています。



 
●赤ちゃんのあやし方

 今の若い日本人に、このように相手の気持ちになって介護してほしいといっても、なかなか大変なことです。しかし、私は声を大にして言いたいのです。「認知症の人を相手にするときは、絶対に相手の気持ちにならなければいけないのだ」と。読者の皆さんは難しいことだと思われるかもしれませんが、それはとても簡単です。

 認知症の人が「今日は、昭和36年だね」と言います。そのとき、寮母はどう答えるでしょうか。「何を言ってるんですか、昭和の天皇様は、もうお隠れになったんですよ。今はもう、平成の時代です。それも平成18年になってるんです。カレンダーを見せましょうか」―、そんなことを言う寮母は、「グリーン東京」には1人もいません。当然ですが、他の有料老人ホームにもいないでしょう。
 あるいは、認知症の人がこう言います。「今年で、おれも52歳だな」。職員は何と答えるでしょうか。「何言ってるんですか、もうあなたは90歳を超えてるんですよ」などと答える職員は失格です。認知症の人を相手にするときは、自分が相手の世界に100%入らなければ、とても介護はできません。
 また、認知症の人はほとんどトイレは自分で始末するし、食事もそれほど人の手は借りません。だから、ホームでの介護というのは問題が起こったときに対応できるように、見守りが基本になります。

 しかし、自宅での介護となると、それは無理でしょう。6人、7人という大家族なら、いつもだれか一人は近くにいられるけれども、ほとんどの家族がせいぜい3人世帯という現状では、少なくとも日中はだれも近くにはいられません。そこが、ホームと自宅との決定的な違いなのです。ですから、自宅で認知症の方を介護するのは本当に大変なのです。

 それから重要なことは、認知症の入居者を見ていると、今住んでいるここは老人ホームだという自覚はないようです。たしかに、まわりにいる職員は自分の家族ではないと知っていますが、ご本人は問題としていないようです。認知症の人にとっては、ここが自宅かどうか、あるいは自分を世話してくれている人たちが家族かどうかということは気になっていないようです。
 それよりも、不安が強いので、ここは安心できる場所か、世話をしてくれる人たちは自分に親切かどうかのほうに関心があるようです。つまり、認知症の人の介護は、いろいろな面で自宅よりも施設のほうがすぐれていると思います。
 さて、相手の立場に立つということの大切さを私は強く訴えているわけですが、実は5年ほど前に貴重な体験をしました。
 正月の2日のことでした。「グリーン東京」での仕事が終わり、最寄りの羽村駅から青梅線で立川駅まで行って、そこで中央線に乗り換えました。車内は空いていて、私の前に若い夫婦と、4歳くらいの男の子と2歳くらいの女の子が座っていました。おそらく、お正月のあいさつでおじいさん、おばあさんの家に出かけた帰りだったのだと思います。
 電車が走りはじめると、私は吊り革に手をやって流れる外の景色を見ていました。電車がちょっと揺れたとたん、「ドン!」という何とも嫌な音がしたのでさっと下を見たら、かわいそうなことに2歳くらいの女の子が思い切りのけぞって、頭をステンレスの窓の枠にぶつけて、ぎゃーっとすごい声で泣きはじめました。
 私が何てかわいそうなんだと思った瞬間です。若いお母さんが気合を込めて言いました。「今のは痛かったねえ、本当に痛かったねえ」と。そのとたん、女の子は泣きやんでしまったのです。女の子にしてみれば、自分の痛みを自分のいちばん大好きなお母さんがわかってくれたんだ、と納得したのでしょう。ママの一言で十分だったようです。

 私は、それに類した場面をいろいろ見てきました。電車のなかでそういうふうに子どもが泣き出したときには、ふつう若いお母さんはまわりのことを考えて「痛くない、痛くない」と言います。すると、子どもはどういう反応を示すでしょうか。この痛みがママには伝わっていないと感じて、悲しくなってもっと大声で泣いてしまいます。

「痛かったねえ」とすぐさま言った若いお母さんを見たとき、私は、これが相手の立場に立つということだ、これこそが介護の基本ではないか、と理解したわけです。


 
●認知症は個室介護が基本

 次に、認知症の人に対する介護で重要なことは、部屋が個室だということです。しかし、日本の特別養護老人ホームでは、ほとんど4人部屋で暮らしています。「予算がないからこうなっているんだ」と言われれば、まだわかる気もしますが、あるときこんなひどいことを言われたことがあります。「4人部屋のほうが、お互いに寂しくないからいいんだ」とか「お互いに刺激があって、認知症が進まない」と。

 何度も述べているように、認知症の人は周囲の人との人間関係をうまくとれないのです。また、私たちにも言えることですが、一人だけでいたいときも多いわけです。やはり、寝るときは個室がいいに決まっています。
 私は、大学を卒業して銀行員となり、西宮市にある独身寮で過ごしましたが、最初の1年は2人部屋でした。もう一人の住人は性格がとてもよかったし、朝は起きてから15分後には独身寮を飛び出して、銀行に出勤していましたから、起きている間に相棒と顔を合わせているのは1日に30分もないのです。それでも、独身寮の2人部屋は、仕事のストレスを癒す場では決してありませんでした。日曜日は、京都、奈良、大阪、神戸の観光地へ、一人で出かけていって思い切り羽を伸ばしたものです。

 多くの日本人は、自分はとても相部屋の生活などできるわけがないとわかっていながら、高齢者ならば、相部屋をがまんできると思い込んでいるようです。
 入居者は、日中のほとんどを相部屋で過ごします。夜間も、高齢になれば睡眠は浅くなりますから、他人のいびきやトイレに立ったときの物音ですぐに起こされてしまいます。
 高齢者の心身の健康にとって、最も大切なことは睡眠を確保することです。夜の睡眠を十分にとれなければ、日中イライラしたり不安になったりします。しかも、人間ですからだれしもつらいときも悲しいときもあります。そのときは一人になれる自分だけの時間がほしいのに、個室がない。これでは、人間の生活とは言えません。

 ある特別養護老人ホームで、4人部屋にいるお年寄りと話していましたら、こんなことを言っていました。「どこの先生か知りませんが、私は3人のおかしな人と住んでいるんです」と。この言葉は、4人部屋というものの一つの悲劇を示している、と思うのは私だけでしょうか。
 それに、有料老人ホームは特別養護老人ホームと異なり、自分の持ち物をたくさん居室に持ち込めます。個室介護ではなく、4人部屋では人のものと自分のものとの区別がつかず、取り合いになってしまうこともあるでしょう。


 
●大きな建物が不安を除く

 個室であることの次に、大きなポイントは、安心して生活できるかどうか、ということです。
 ヨーロッパには、「福祉は住宅に始まり、住宅に終わる」という格言があります。要するに、介護ノウハウの半分はバリアフリーを含めた建物のあり方、残りの半分はマンパワー、つまり職員の対応にかかっているわけです。もう一つ加えるとすれば、よい福祉機器の存在です。
「安心」というキーワードが認知症の人の生活を守っていますから、まず安心できる大きな建物、そして名前は覚えられないけれど顔見知りの安心できる職員が必要なのです。だから、先にも述べたように、職員が次から次に辞めてもらっては困るのです。

 つまり、毎日毎日が同じようにくり返されることで、認知症の人は安心して生活することができるのです。
 そんな生活のなかで、二年ぶりに日本に帰ってきた孫がお見舞いに来たからといって、やむなく会ったりすると、ぐったりと疲れてしまうのです。あるいはまた、認知症の人にしてみれば、訪ねてきた面会者が孫とはわからないので、どのように対応していいかわからないということもあります。
 ただ、百者百様とよく言いますが、たしかにお年寄りの世界は例外ばかりです。例えばあるとき、面会に来てくれた自分のひ孫をとてもかわいがっている入居者がいました。私はそのとなりにいたので、「本当にかわいらしいお嬢さんですね」と言いましたら、「どこの子かわからないけれど、かわいいのであやしているんだ」と答えました。その入居者はひ孫だとは認識していなかったのです。

 次に、記憶は残らなくても、ホームの外へ出ることは重要です。ただ、認知症の人の散歩とは、人手のたくさんかかる介護です。
 たとえば10人の認知症の方を連れて散歩すると、それぞれが勝手にあっちへこっちへと歩いていきますから、付き添いは7人くらい必要になります。そして職員が大変な思いをして散歩からやっと帰ってきても、1分後にはすっかり忘れています。では、なぜ外出が必要なのでしょうか。それは言うまでもなく、ストレスの解消になるからです。一日中、家のなかに閉じこめられていたら、当然ですがストレスがたまります。
「グリーン東京」には庭がいくつもありますが、私はその庭の一つをつぶして、地面には転んでも怪我をしないようにクッションの素材を入れ、空を仰ぎ見ながら過ごしてもらえる空間をつくりました。これは、どこのホームでもできる簡単なことですし、散歩のように人手もかかりませんから、ぜひ採り入れてもらいたいと思っています。
 やはり、空の下で日中の一時間、二時間を過ごせばストレスも発散されるので、部屋に戻っても、暴力行為やウンチの壁塗りなどに走るようなことはかなり抑えられます。


 
●90歳を過ぎても美白の世界

 実は、その庭をつくって、驚いたことが一つあります。初めのうちは認知症の入居者も、認知症ではない介護の必要な入居者も、その庭になかなか出てきてくれませんでした。一年ほど経って、大きな落葉樹を植えました。そのころから、次第に庭に出てくれるようになりました。
 大きなケヤキ、カエデ、シャラの三本の落葉樹を植えたのですが、それは四季の移り変わりがわかるように、あるいは夏は木陰になるように、冬は地面に葉が落ちて温かい足ざわりが感じられるように、という思いからでした。また、この3本の木は、とても腕のいい植木屋さんといっしょに、私が自ら群馬県の山を歩いて探してきたものでしたから、私にとってとても自慢でした。

 それだけに、「いい木でしょう。よくこの庭に出てくださいました、ありがとうございます」と、たまたま庭に出ていた認知症の女性に言ったら、「木陰ができましたから、庭に出ましても肌が荒れませんのよ」という答えが返ってきました。私は、唖然としました。また、認知症ではないほかの入居者からも、同じようなことを言われました。「木陰ができて、外に出るのがとても気持ちよくなりました」と。その人の年齢はもう90代も半ばを過ぎているのです。そのとき私は、女性はいくつになっても女性なのだなと改めてわかりました。3本の木を植えてよかったと、つくづく思いました。

 15年ほど前でしょうか、こんなこともありました。自分が妊娠していると思っている認知症の人がいたのです。その方が病気になったので救急車を呼んだら、なかなか乗ってくれません。そこでベテランの看護師が機転をきかせてこう言いました。「奥さま、産気づいたのではありませんか?」と。すると、その人はすぐに救急車に乗ってくれました。
 さて、認知症の人の介護でいちばん大きな問題は、不穏になったとき、大きな声を出したとき、あるいは暴力的になったときにどうするかということです。まわりにいる入居者との関係が悪化してしまいます。この場合はまず、集団介護をやめます。その人を他の入居者から離して、一対一で相手をするわけです。
 そうした不穏な行動は、10分くらいで収まることもあれば、30分くらいかかることもあります。そういう意味では、ホームの職員はやはり多めでなければいけません。そして、ホームという施設には不穏となった認知症の方に時間を過ごしてもらうために、あちこちに共用部分がなければいけません。ちなみに「グリーン東京」では屋上にも広い庭園をつくっていますし、地下にも庭園があります。館内にもいろいろなところに3人、5人と集まれるような場所をつくっています。


 
●入居者の生活空間を分ければ問題解消

 さらに、建物の構造については、健康な方々と認知症の方々が別々に住める形態であることが大切です。生活空間を完全に分ける必要はありませんが、食堂や住んでいる階は分けてあるほうが無難です。そうでなければ、「終のすみか」にはならないのです。

 健康な方々のなかに認知症の方が1人いれば、だれから見ても問題児であって、まさに共同生活に支障をきたす状況をつくり出しますから、契約書の条文に従ってホームから出されてしまいます。しかし、それはホーム側の建物の構造が悪いのであって、認知症の入居者が悪いのではありません。

 健康な入居者の生活空間と、要介護者の生活空間とは、とくに認知症の入居者の場合、居室ばかりでなく食堂などの日中の生活の場所もまた区別しておいたほうが無難です。そうしないと、すべての入居者にとって、有料老人ホームが快適な「終のすみか」となることは難しいということです。

 有料老人ホームの入居契約書を読みますと、ホーム側から契約を破棄できる条件として、「入居者が共同生活の秩序を乱す」というものがあります。ホーム側にとっては、この一方的な解約条項がなければ、入居者全員の生活を守って、ホーム全体の円滑な運営をつづけることができませんので、共同生活の秩序を乱す場合は必ず契約を破棄できるという一条を契約書に載せているのです。
 入居を考えている高齢者から見ても、認知症の入居者の存在で自分たちの毎日の生活を乱されるのはたまりませんし、かりに自分自身が認知症になった場合でも、ほかの入居者に迷惑をかけることは申し訳ないから退去させられても仕方ない、と考えてしまうことでしょう。

 しかし、ここに落とし穴があります。ホーム全体の利益を優先するという、一見もっともらしいホーム側からの解約条件ですが、きちんとした介護センターをもっている有料老人ホームならば、よほどのことでもない限り、認知症の入居者が共同生活の秩序を乱すようなことはありません。認知症の入居者が、自分は安心できるところで生活していると感じ、落ち着いて暮らしていれば、不安から生じる防衛反応である暴力行為など起こすことはまずまれなのです。

 日本社会では、認知症に対する誤解が多くて困ります。認知症の人は暴力的だというのも一例です。周囲の人が自分にやさしく接してくれると思っていれば、まず暴力行為は起きません。認知症の人は、今自分がいる場所に対する判断力が弱く、目の前に突然現れた人が安心できる人かどうかが、とっさにわかりません。対人関係で不安を感じていますから、わが身を防衛する行動、つまり攻撃という暴力行為となるのです。

 しかし、認知症を理解していない人には、もともと暴力的な人と映ることでしょう。認知症の人に、背後から声をかけたり肩を叩いたりすれば、ときには殴られることがあっても仕方ないのです。認知症の人に接するには、正面から近づくことです。笑顔でもって、自分はあなたの敵ではないと認識してもらいながら、近づくことです。いきなり、1メーートル以内の至近距離に立てば、認知症の人はおびえてしまいます。

 有料老人ホームにおいて、こうした認知症の入居者の生活を守っている介護センターがなく、ただのマンションのような構造の建物で、認知症の入居者と健常な入居者とが同じフロアでいっしょに住むならば、たとえどんなに軽い認知症でも、日々、共同生活の秩序を大いに乱す行為が起こることでしょう。
「入居者が共同生活の秩序を乱す」という条文がいずれの有料老人ホームの契約書にもありますが、この条文が行使されるホームかどうかは、個々の有料老人ホームの介護現場をしっかり観察してみれば、かなりの程度わかるものなのです。注意すべきは、入居して15年も20年もすれば、認知症になる方は予想をはるかに超えて相当の人数に達します。
 それに対応できている建物、設備なのかを調べることです。

 実を言いますと、私のホームでも認知症の入居者が多くなりまして、このままいけば数年後には認知症の入居者への介護が、だんだん難しくなりそうなのです。そこで、このたびホームの近くに土地を購入して、新しく職員寮を建設しました。そして、敷地内にある旧職員寮を壊して、人数が増えてくる認知症の方々に安心してもらえる介護棟を数年後には建設する予定です。

 要は、認知症の方々への介護を見れば、ホーム全体の実力がわかるのです。「認知症になったときにはどういう介護をなさいますか?」、「大声を出されたときはどうされますか?」と、見学にあたっては、一つひとつきちんと聞くことです。


 
●国民生活センターの提言

「グリーン東京」で20年間、私は経営者をしてきました。最初の十数年は認知症の人たちの介護ができていましたが、たまたま症状の軽い人たちばかりなのかなと思っていました。20年経った今でも、介護が大変になったから出ていってほしいとこちらからお願いしたことは一度もありません。
 将来もずっとそういうことはないとは言い切れませんが、20年間の経験からして、私自身、認知症の人は終身介護できると考えていますし、多くのホームにもその考えが伝わってほしいと切に願っています。

 ちなみに、第三部の冒頭で紹介した国民生活センターからの報告書の中で、次のような「提言」が出されています。文中にある「特定施設」とは、有料老人ホームのことです。

 有料老人ホームは「介護が必要となっても当該有料老人ホームが提供する特定施設入居者生活介護を利用しながら、当該有料老人ホームの居室で生活を継続することが可能」なホームと説明されている。「介護が必要になっても居室で生活を継続することが可能」あるいは、「終身利用」「終身介護」をうたいながら、認知症による不合理な行動が発生した場合や重度の介護状態の場合に、それを理由に事業者側から解除できるとする条項は問題があり、優良誤認を与える不適切な表示であるといえる。

 このように国民生活センターは提言していますが、私はまったく正しいと思っています。なお、優良誤認とは何かと言いますと、優良(終身介護)でもないものを、あたかも優良(終身介護)であるかのように見せることです。

 これは公正取引委員会が法令で定めた広告ルールのところでもふれましたが、もう一度、簡単に言えば、スーパーに私たちが買い物に行ったときに「100グラム800円」という牛肉の値段のところに二重線が引いてあって、「100グラム550円」と書いてあるケースがよくあります。すなわち、550円のものをあたかも800円であるかのように見せる、これが優良誤認ということです。


 
3 これだけは注意すべき認知症の介護
●本人が苦しむ認知症の初期をどう支えるか

 認知症の高齢者がいかに豊かに生きているか、あるいは認知症の高齢者の介護がそれほど大変ではないといったことを述べてきましたが、やはり注意していただきたいこともあります。
 それは、私の過去の失敗談でもあります。
 私は庭が好きで、15年前、植木屋さんといっしょに伝統に則った日本風の石庭をホームの一角につくりました。ある日、完成したその石庭の前に認知症の女性が座り、ずっと庭を眺めていました。「ああ、庭を見て気持ちが落ち着いていらっしゃるんだろうな、苦労してつくってよかった」と密かに思いながら内心喜んでいました。そうしたら、何と「そろそろ帰らせていただきます」とおっしゃるのです。
 しばらくして、その認知症の人の気持ちがわかりました。自宅の庭ではなく、料亭の庭を私がつくってしまったということだったのです。つまり、認知症の人の住まい、その生活の基本原則をどのように成り立たせるかは、日常というものをどうつくるかということなのです。毎日が同じように過ぎていくこと、不安なく過ごせることが大切なのです。

 こうした経験がありましたので、「グリーン東京」の建物も日常の生活の場をいかに創るかという趣旨で、何度も改修してきました。つまり、「ほどほどに豪華」ということです。
 超一流ホテルのようにしたら、それは生活の場にはなりません。その意味で、15年前に私が趣向を凝らしてつくった石庭は、認知症の人にとって非日常の感覚を与えてしまったわけですから、失敗であったと言わざるを得ません。

 ところで、認知症の人は判断力、記憶力が弱く、自分が認知症であるという自覚はありませんが、しかし初期の人は違うということです。認知症の初期の人は、人によっては、「あっ、自分は記憶力が弱くなっているな」とか、「認知症になりかけているのかな」と、自覚している場合があります。本人はそのとき大変つらい思いをしていると思います。
 そうした人は、数カ月ぐらいで一気に認知症に進むこともあれば、一年ぐらいかかる場合もあります。そのときに精神科医に診てもらって、どうやって支えていくのか、そのあたりがとりわけ重要になります。
 家族がそのことを理解してくれれば、家族にもたびたびホームに来てもらって支えてもらいます。ただ、ときには逆の場合もあります。自分の親が認知症になったということを認めたくないと拒む方もいらっしゃいます。子どもにしてみれば、実の親に認知症が発病したというのはつらい現実です。そのようなときは、私たちも少なからず困ります。


 
●認知症の早期発見は是か非か

 認知症という言い方に変わる以前は「痴呆」と言っていました。前にも述べましたが、この言葉は「バカ」という意味の漢字を二つも並べています。「痴呆」という単語を用いること自体が、いろいろな勘違いの原因の一つですが、一般化してみれば、すぐにことの重大性がわかります。
 たとえば、親しくもない人から「あなたはつくり話をしますか」とか「物忘れは激しいですか」、「異性に対する興味は強いですか」といった質問をされたら、だれしも不愉快になるでしょう。こうした質問が、厚生労働省のつくった認知症かどうかの要介護認定の調査表にも堂々と載っているのです。高齢者から見れば、自分よりはるかに年下の福祉関係者が、幼稚園児に対するのと同じく、「今日は何曜日ですか」「総理大臣の名前を言ってください」「お齢はいくつですか」と自分に関いてくれば、無礼そのものに感じるのは当然のことです。
 たとえ認知症が重くなっていても、感情は豊かで喜怒哀楽もまだまだあります。今日が何曜日なのか答えがわからない人にとっては、こんな簡単な問題も自分は答えられなくなってしまったのかと、情けなくなって気落ちしてしまいます。

 つまり、こうした調査は、相手の人格を踏みにじるような質問を一方的に浴びせかけて、認知症の高齢者をいじめているだけなのです。あるいは、答えがわかっていても、はるかに年下の者から人をバカにしたような質問を出されて、自分は試されているという怒りで心が乱れ、とても返答できる状況ではないかもしれません。
 以上のような対応は、なるべく認知症の人に、してほしくないのです。
 認知症は早期発見が重要だとよく言われますが、正直に言って私には早期発見が正しいのかどうかわかりません。というのも、認知症を早期に発見すると、子どもたちは突然、老親に対して「7足す8は、いくつですか」とか、鉛筆を5本見せてから隠してしまい、「鉛筆は何本ありましたか」、といった質問を毎日浴びせて、一生懸命に知能訓練をやるようになるのです。
 これでは、親が荒れるのも当然です。認知症の介護とは、正しくは本人ができることだけを選んで、日々の生活をすごしてもらうことが基本だからです。
 ところが、親が荒れると、子どもはますます認知症が進んでいると思い込んでしまいます。「私の父は温厚だったのに、認知症になってから暴力的になってしまった」というふうに考えるわけです。しかし、温厚だった父親を暴力的な性格に変えた原因は、父親に執拗に足し算を強要した子どものほうにあるのです。

 こういう家庭は、もはや親子関係は断絶していると言うしかありません。親も子も何をしていいかわからず、パニックに陥っているのです。
 精神科医の和田秀樹医師は、日本人の認知症に対する理解は誤っているので、むしろ家庭の中では、「認知症の“発見”は、遅ければ遅いほどいい」とも言い切っています(『老人を殺すな!』ロングセラーズ)。
 その理由として、次の二点をあげています。

(1)現段階では、痴呆(筆者注:現在は認知症)、とくに「アルツハイマー型痴呆」は治 らない病気とされているから、発見しても治療できない。
(2痴呆と診断されると、確実に家族の態度は変わる。痴呆は、「新しいことを覚えられ ない」病気だから、家族の態度が変わって、新しい環境に追いやられれば痴呆症状の 進行を速めてしまう危険性が高い。

 くり返しますが、現在のところ残念ながら日本の介護に関するレベルはとても低いものです。認知症に対する理解度も低いですし、何よりも要介護者本人の視点に立った介護がなされているとはとても思えません。


 
●“盗られ妄想”は老化の象徴

 認知症ではありませんが、認知症と間違われやすい行動に“盗られ妄想”というものがあります。これは、老化の一つの象徴と言えます。自分で何かが見つけられないときに、どこに置き忘れたのだろうかとは考えずに、盗られたとただちに確信的に思い込むことです。認知症ではなくても、そして記憶力がしっかりしていても、高齢になるにつれて盗られ妄想は起こります。

 竹中星郎医師によれば、盗られ妄想の特徴と背景は次のようなものです(『老年精神科の臨床』岩崎学術出版社)。
(1)痴呆(筆者注:現在は認知症)がない老人にも発現する。他の年代にはみられない。
(2)盗られたと即断する。物が見当たらないと、探したり自分の勘違いを検討せすに、盗 られたと訴える。
(3)訴えが激しい。セーターや靴下で警察に届け出る。
(4)妄想である。つまり、盗られたと確信して訂正しない。その物がみつかっても、「私 が騒いだから犯人がこっそり戻してきた」と主張する。
(5)犯人が特定されている。それは娘や嫁といった主たる介護者が大半を占め、名指しし ない場合でも、犯人がだれかを匂わせる。すなわち、自分を世話してくれている人に対する攻撃である。

 すなわち、その人の助けがなければ自分の生活が成り立たないにもかかわらず、世話をしてくれている恩人を攻撃するのが、盗られ妄想です。
 共通しているのは、たとえば、自宅で生活している高齢の女性が、体力の衰えから主婦の座を嫁に譲り渡して、家庭のなかで自分の役割を失ってしまう、などのように、家族関係のなかで弱い立場に立たされたという変化が、盗られ妄想の原因になっていることです。主婦というプライドが失われた、それが盗られ妄想の一因です。
 人生90年を生きるということは、かくもいろいろな問題を内包しているわけです。
 自分が依存している人に対して盗った犯人だということで、無意識に攻撃を仕掛けるのですから、何ともやりきれない悲劇です。盗られ妄想とは「老化」の本質を如実に表しています。人間は社会的な動物ですから、老化の過程で、自分が衰えていくときでさえも、周囲との人間関係まで壮絶に巻き込んでいくことが多いのです。

 これが自宅での介護の場合、身内はやりきれませんから“地獄の家族介護”となります。
 さて、この第三部を終わるにあたり、私の苦い経験も含めて、認知症の人との会話はどのようにあるべきなのか、考えてみたいと思います。
 それはまず、相手のレベルで会話するということです。話し好きな人だったら、相づちを打つのがいちばんいいでしょう。なかなか話のできない口べたな人なら、「いいお天気ですね」というようなさり気ない問いかけをしてみることです。相手が「いいお天気ですね」と話しかけてきたら、「はい、本当にいいお天気ですね」と答えればいいのです。

 私の苦い経験をお話ししましょう。「明日はね、孫がたくさん来るんですよ」とおっしゃられたとき、私は「それはよかったですね。お孫さんは何人いらっしゃるんですか」と聞いてしまいました。すると、顔の表情がさっと曇ってしまったのです。それは、何人来るのかわからなかったからです。私はとっさに、「ああ、失敗した、申し訳なかった」という気持ちでいっぱいになりました。そうした失礼なことをしてしまった体験は、これまでに何度もあります。
 妄想をもつ人たちと話していると、たとえばこんなこともあります。「昨夜は、死んだ主人が会いに来てくれましてね」とおっしゃったりするのです。そんなとき私は、「よかったですね、そうでしたか」というふうに答えます。架空の話ではありますが、相づちを打つということです。

 ただ、そこにはやはり、ある一線があるのではないかと、私はこの20年間の体験から感じとるようになりました。
 あるとき、こんなことがありました。夜、ある入居者が廊下から庭を見ているのでそばに寄ったら、「今夜は、人霊がたくさん飛んでいる」とおっしゃるのです。そのようなときは、「あ、本当だ、たくさん飛んでますね」とは答えないほうがいいと思います。「え、そうなんですか」というように答えて、否定も肯定もしないのです。要するに、自分には見えないということをやんわりと匂わすわけです。あるいは、何気なく話をそらせたりします。そうしたことを、私は20 年間の体験から得たと思っています。

 20年間、認知症の方々と接してきて、認知症の人は怖いなと思うことは多くあります。記憶力とか判断力が衰えていますが、その分、人の心の中がよく見えるようなのです。どの寮母さんが自分には親切なのかも、根本的に知っているようです。そういう意味でも、認知症の人の介護を通じて、私自身も人間というものがわかってきましたし、介護をする側も自分が成長しているのだなと喜びを感じています。この仕事に出会ったことに感謝しています。


※法律が改正されて、痴ほうという言葉は認知症に替わりました。つきましては当ホームページでは、
認知症と表記いたします。


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